こんばんは。ブログにお越しくださりありがとうございます。
会津戦争の終盤、斎藤さんの「誠義にあらず」の発言は、「義に死すとも、不義には生きず」という会津藩の藩意と似て心に強く残ります。
「会津藩嘆願書*1」は奥羽越列藩同盟が発足した時に、仙台藩へ会津藩士が提出した嘆願書です。決してその時点での「藩意」ではなく、藩内抗戦派の同盟軍への援助要請で、言葉も薩摩長州を「奸賊」と厳しい表現を使っています。しかし、文面の中にある「義を以って死ぬことはあっても、不義を以って生きることはない」という決意は、誇り高い会津藩士の気風そのものです。
大鳥圭介は斎藤一が神指城に向かった後、北方から猪苗代に移動し、そのまま衝鋒隊と一緒に仙台に向かいます。高久村の会津軍が新政府軍に破れ敗走したことから、会津新選組のことも絶望視していたのでしょう。先に土方歳三と共に仙台へ向かった中島登が、如来堂で斎藤一が戦死したと後に戦友絵巻に記述しています。
会津戦争中の城下の惨状は、筆舌にし難い程酷く。新政府軍は鬼畜の行いで会津の民を苦しめます。会津軍はまさに辛酸をなめ満身創痍で戦い続けますが、約一か月の籠城戦の後、降伏に至ります。
会津藩士の「頑迷強摯の気風*1」について書きます。
頑迷は「かたくなでものの道理がわからないこと。考え方に柔軟性がないこと」、強摯は「大層真面目なさま」で、会津は古来より四方を山に囲まれ交通の便に欠いていた事から、会津人は世の風潮に疎く進取の気性に乏しき風ありとされています。
会津人は向武の風に富み、勇猛剛武にして義風に富み、廉恥を重んずること深し。
これはわたしの勝手な解釈ですが、薄桜鬼で描かれている斎藤一の気質に近いものを感じます。藩祖の保科正之が授けた家訓と子弟教育は「什の教え」として、幼少の頃から一途な人間を育成していきます。武家の子息は、六、七才の頃から、城下の私塾から帰ると、羽織袴を身に着けたままで仏間に入り、毎日切腹の作法を一通りやってから昼食をとる習わしがあったと伝わっています。最悪の事態の場合は、会津武士としての誇りを守って立派に切腹して果てることができるようにと厳しく訓育されました。「ならぬことはなりませぬ」という訓育は、時に頑迷で融通のきかない「会津発狂」と呼ばれる真っ正直な人間を形成していきます。
忠は美徳であり、会津藩士の君臣の道は他藩に類を見ない程厳しいものでした。こういった部分も、薄桜鬼の斎藤さんが懐く会津藩に「微衷を尽くす」想いにも重なりますね。京都守護職から壬生浪士に市中警備を任され、会津藩お預かりの身分を与えられた時から、会津への忠義心は斎藤さんの精神の中枢にずっと強くあったのでしょう。
ここまで読んで下さって有難うございます。
==============================================
出典 *1 「続会津の歴史」講談社 葛西 富夫

